土門拳(1909~1990)
土門拳は昭和を代表する写真家である。
徹底したリアリズムにこだわった報道写真や、寺院仏像など日本の伝統文化を独特の視点で切り取った作品を発表。
激動の昭和にあって、そのレンズは真実の底まで暴くように、時代の瞬間を、日本人の現実を、そこに流れる日本の心を捉えた。「絶対非演出の絶対スナップ」など独自のリアリズム論を提唱し、戦後写真界をリード。また、写真界屈指の名文家としても知られる。
土門拳は昭和を代表する写真家である。
徹底したリアリズムにこだわった報道写真や、寺院仏像など日本の伝統文化を独特の視点で切り取った作品を発表。
激動の昭和にあって、そのレンズは真実の底まで暴くように、時代の瞬間を、日本人の現実を、そこに流れる日本の心を捉えた。「絶対非演出の絶対スナップ」など独自のリアリズム論を提唱し、戦後写真界をリード。また、写真界屈指の名文家としても知られる。
● 土門拳の略年譜
- 明治42年(1909)・・・・・・・・0歳
- 10月25日、山形県飽海郡酒田町(現・酒田市相生町)に生まれる。両親が出稼ぎに出たため祖父母のもとで育つ。
- 大正5年(1916)・・・・・・・・・7歳
- 東京へ一家で移り住む。
- 大正7年(1918)・・・・・・・・・9歳
- 横浜市に転居。
- 大正12年(1923)・・・・・・・14歳
- 神奈川県立横浜第二中学校(現・翠嵐高校)に入学。画家を志望する。
- 大正13年(1924)・・・・・・・15歳
- 家の経済上の理由で退学を決意するが、成績優秀のため授業料免除の特典を受ける。
- 昭和3年(1928)・・・・・・・・19歳
- 中学卒業後、逓信省倉庫の日雇い、常盤の師匠に弟子入り、弁護士の住み込み書生と職を転々とする。この間、才能に疑問を抱き画家になることをあきらめる。
- 昭和7年(1932)・・・・・・・・23歳
- 全農全国会議の農民運動に参加し、検挙、拘束される。
- 昭和8年(1933)・・・・・・・・24歳
- 母の勧めで、上野池の端の宮内幸太郎写真場の内弟子となる。夜間、本を読み、写真の歴史と基礎理論を独学。報道写真家を志し、写真誌に応募する。
- 昭和10年(1935)・・・・・・・26歳
- 名取洋之助主宰の日本工房に採用され、宮内写真場を逃げ出す。対外宣伝雑誌「NIPPON」を中心に、日本の海外紹介パンフレットの写真を撮影する。
- 昭和11年(1936)・・・・・・・27歳
- 「NIPPON」のため、伊豆半島を取材。
- 昭和13年(1938)・・・・・・・29歳
- 宇垣一成外相のルポ写真がアメリカの「ライフ」9月5日号に署名入りで掲載される。
- 昭和14年(1939)・・・・・・・30歳
- 日本工房を退社、外務省の外郭団体国際文化振興会の嘱託となる。中村たみと結婚。
美術史家水澤澄夫の案内で初めて室生寺を訪れ撮影。以後、ライフワークとなる。 - 昭和15年(1940)・・・・・・・31歳
- 「琉球観光団」(団長柳宗悦)に加わり、沖縄各地を取材。
- 昭和16年(1941)・・・・・・・32歳
- 東京・新橋演舞場にて文楽の撮影を開始。2年間で約7千枚撮影、文楽の黄金時代を記録。
梅原龍三郎を撮影。撮影をねばり、梅原を怒らせる。 - 昭和18年(1943)・・・・・・・34歳
- 「対外宣伝雑誌論」を『日本評論』9月号に発表し、国内の宣伝グラフ誌を批判。その後、国際文化振興会の嘱託を辞す。
- 昭和21年(1946)・・・・・・・37歳
- 戦後初めて室生寺を訪ねる。以後、京都、奈良の古寺巡礼を再開する。
- 昭和25年(1950)・・・・・・・41歳
- アルス「カメラ」の月例写真審査員になり、アマチュア写真の指導を始める。選評の中で「カメラとモチーフの直結」「実相観入」「絶対非演出の絶対スナップ」などをうたい、リアリズム写真を提唱。ブームと論議を巻き起こす。
勅使河原蒼風と出会い、交友を深める。亀倉雄策とともに三兄弟といわれる。 - 昭和27年(1952)・・・・・・・43歳
- 木村伊兵衛と「カメラ」月例写真審査員を担当、合評連載。
- 昭和28年(1953)・・・・・・・44歳
- 「江東のこども」を撮り始める
写真集『風貌』(アルス) - 昭和29年(1954)・・・・・・・45歳
- 第一期リアリズム写真の終了を宣言。
写真集『室生寺』(美術出版社) - 昭和30年(1955)・・・・・・・46歳
- 写真集『室生寺』により第九回毎日出版文化賞受賞。
日本写真協会功労賞受賞。 - 昭和32年(1957)・・・・・・・48歳
- 初めて広島へ行き、原爆投下12年目のヒロシマの現状を目にし翌年まで広島に通いつめる。
- 昭和33年(1958)・・・・・・・49歳
- 写真集『ヒロシマ』(研光社)刊行、大きな反響を呼ぶ。
写真集『ヒロシマ』により第四回毎日写真賞、第二回日本写真批評家協会作家賞受賞。 - 昭和34年(1959)・・・・・・・50歳
- 閉山した北九州筑豊の炭田地帯を取材、炭鉱労働者の生活を記録。
帰京後、過労のため、軽い発作で倒れて自宅静養する。 - 昭和35年(1960)・・・・・・・51歳
- ザラ紙の写真集『筑豊のこどもたち』(パトリア書店)を定価100円で刊行。10万部を売る。
脳出血のため東京警察病院に入院。
第10回芸術選奨受賞。
第10回日本写真協会年度賞受賞。
写真集『ヒロシマ』により東ベルリンの国際報道写真展で金賞受賞。
写真集『筑豊のこどもたち』により第三回日本ジャーナリスト会議賞受賞。
カラー写真による「古寺巡礼」を本格的に開始する。
筑豊を再訪、田川児童相談所を取材。
写真集『るみえちゃんはお父さんが死んだ』(研光社) - 昭和36年(1961)・・・・・・・52歳
- 写真集『Hiroshima Nagasaki Document』(東松照明共著、原水爆禁止日本協議会)
- 昭和38年(1963)・・・・・・・54歳
- 豪華写真集『古寺巡礼』第一集(美術出版社 昭和50年第5集で完結)
- 昭和40年(1965)・・・・・・・56歳
- 写真集『信楽大壺』(東京中日新聞社)
写真集『古寺巡礼』第二集(美術出版社)
写真集『大師のみてら—東寺』(美術出版社) - 昭和43年(1968)・・・・・・・59歳
- 10年ぶりに広島を訪れ、被爆者を再び取材。
山口県萩市で取材中、脳出血で倒れ、九州大学付属病院に入院。
写真集『古寺巡礼』第三集(美術出版社) - 昭和44年(1969)・・・・・・・60歳
- 長野県鹿教湯温泉の療養所に移り、再起のためリハビリに励む。11月退院。以後車椅子で撮影する。
- 昭和46年(1971)・・・・・・・62歳
- 『古寺巡礼』により第19回菊池寛賞受賞。
写真集『薬師寺』(毎日新聞社)
写真集『古寺巡礼』第四集(美術出版社) - 昭和47年(1972)・・・・・・・63歳
- 「ヒロシマ」がニューヨーク近代美術館パーマネントコレクションに収められる。
写真集『文楽』(駸々堂出版) - 昭和48年(1973)・・・・・・・64歳
- 紫綬褒章受章。
写真集『東大寺』(平凡社) - 昭和49年(1974)・・・・・・・65歳
- 『古寺巡礼』第五集のため、車椅子で撮影を始める。
郷里山形県酒田市名誉市民第一号となる。
写真集『古窯遍歴』(矢来書院) - 昭和50年(1975)・・・・・・・66歳
- 写真集『古寺巡礼』第五集(美術出版社)
- 昭和51年(1976)・・・・・・・67歳
- 写真集『こどもたち』(ニッコールクラブ)
- 昭和52年(1977)・・・・・・・68歳
- エッセイ集『三人三様』(勅使河原蒼風、亀倉雄策共著 講談社)
写真集『土門拳自選作品集』全三巻(世界文化社) - 昭和53年(1978)・・・・・・・69歳
- 40年目にして初めての雪の室生寺を撮影。
写真集『生きているヒロシマ』(築地書館)
写真集『女人高野室生寺』(美術出版社) - 昭和54年(1979)・・・・・・・70歳
- 脳血栓で倒れ、東京・虎ノ門病院に入院。以後、意識不明の状態が続く。
- 昭和55年(1980)・・・・・・・71歳
- 山形県酒田市に土門拳記念館の設立が決まる。
勲四等旭日小綬章受章。 - 昭和56年(1981)・・・・・・・72歳
- 毎日新聞社が土門拳賞を制定。
- 昭和58年(1983)・・・・・・・74歳
- 10月、酒田市に土門拳記念館開館。
『土門拳全集』(小学館)全13巻刊行開始(昭和60年完結)
写真・エッセイ集『手—ぼくと酒田』(土門拳記念館) - 平成元年(1989)・・・・・・・・80歳
- 写真集『土門拳の古寺巡礼』(小学館)全7巻刊行開始(平成2年完結)
- 平成2年(1990)
- 9月15日、入院先の虎ノ門病院で心不全のため死去。
土門拳の代表作
※画像をクリックして詳細をご覧ください。
土門拳のことば
● 写真の立場
実物がそこにあるから、実物をもう何度も見ているから、写真はいらないと云われる写真では、情けない。
実物がそこにあっても、実物を何度見ていても、実物以上に実物であり、何度も見た以上に見せてくれる写真が、本物の写真というものである。
実物がそこにあっても、実物を何度見ていても、実物以上に実物であり、何度も見た以上に見せてくれる写真が、本物の写真というものである。
写真は肉眼を越える。
それは写真家個人の感覚とか、教養とかにかかわらない機械(メカニズム)というもっとも絶対的な、非情なものにかかわる。時に本質的なものをえぐり、時に瑣末的なものにかかずらおうとも、機械そのものとしては、無差別、平等なはたらきにすぎない。
そこがおもしろいのである。
それは写真家個人の感覚とか、教養とかにかかわらない機械(メカニズム)というもっとも絶対的な、非情なものにかかわる。時に本質的なものをえぐり、時に瑣末的なものにかかずらおうとも、機械そのものとしては、無差別、平等なはたらきにすぎない。
そこがおもしろいのである。
写真家は、機械のうしろに、小さく小さくなっている。写真家が小さくなって、ついにゼロになることは、なかなかむずかしい。せいぜいシャッターを切るとき、あっちの方を眺めるぐらいなものだ。
写真の中でも、ねらった通りにピッタリ撮れた写真は、一番つまらない。
「なんて間がいいんでしょう」という写真になる。
そこがむずかしいのである。
写真の中でも、ねらった通りにピッタリ撮れた写真は、一番つまらない。
「なんて間がいいんでしょう」という写真になる。
そこがむずかしいのである。